聖徳太子時代の救済事業にはじまり、民生委員制度の前身である方面委員制度、制度のはざまで困窮する方を支援する大阪しあわせネットワーク事業など、大阪には先駆的な取り組みがたくさんあります。これらが発展的に変化し継承されてきたのは、「変わらないもの」と「変わってきたもの」があったからです。
変わらないものとは、「人」が最も大切な資源となり制度を支え続けてきたこと。一方で、変わってきたものとは、時代の流れを敏感に捉え、考え続ける「柔軟な姿勢」です。
府社協は、これまで培ってきた経験やノウハウを生かしながら、変化を楽しみ、新たな課題や可能性に挑戦し、組織とともに職員も成長し続けていきます。
昭和26(1951)3月、戦後の民主化が進むなかで、社会福祉関係者の組織の再編成と近代的な福祉の総合組織として、府社協をはじめとする都道府県社協は、同年4月の社会福祉事業法によって法的に規定されました。府社協は同年6月に財団法人として認可を受け、民間の自主的な組織として第1歩を歩みはじめました。
府社協創設当時は、大阪市東区法円坂町の大阪府更生会館内に事務所がありました。その後、社会福祉関係者の拠点建設の願いと府有地の活用促進を受けて昭和52(1977)年から府社協会館建設の検討がすすめられました。当時の大阪府の竹内社会課長は、府社協がセンター設置者となり、日本自転車振興会(以下、日自振)の補助を主体に、不足額は借り入れ金と寄付金で補填し、借り入れ償還金を府が補助するという方式を採用しました。
この時から、竹内課長をはじめ、施設部会の吉村靫生(大阪自彊館)、岩田克夫(大阪老人ホーム)、森田信行(花園保育園)、井上光(府社協事務局長)の5名を中心に厚生省や日自振に指導センター建設の理解を求める行動がはじまりました。この働きにより東京の支援者3名が加わり、8名で約2年にかけて日自振の補助確定にこぎつけました。
竹内氏は、府社協40周年記念誌に「8人のどの1人が欠けてもセンターは完成しなかった。1つの大事を成すにはまず人を得ること。そんな人を育てるのがセンターの重要な役割である」と当時を振り返っています。
こうして、府有地を借り受け日自振からの資金援助と会員関係者の協力により、昭和56(1981)年3月に社協が自ら会館を建設し、運営するという全国的にも珍しい大阪方式の大阪社会福祉指導センターの建設が実現しました。
大阪は、「福祉のまち」、「人情のまち」といわれ、大阪の歴史と伝統は、人々の苦しみや生活困難を大阪商人と民衆の力で乗り越えてきた歴史があり、平等主義的な社会関係が築かれてきました。
大阪の地は、古く太古の時代から、政治・経済・文化の中心となり、商工業の発展とともに、労働者・庶民の生活問題等さまざまな社会問題に対する社会事業の実践が試みられてきました。
その原流は、すでに2千年前の古代前期に、難波津において医療社会事業の萌芽が見られました。
また、聖徳太子(西暦574年誕生)は、四天王寺に施(せ)薬院(やくいん)、悲(ひ)田院(でんいん)等の四箇院を建立し、病人や子ども等困難を抱える人々の救済や慈善・慈恵の精神に立ち、飢饉や天災、疾病等の犠牲者の供養や救済事業を起こしました。
四天王寺は、今も現存し、社会福祉法人四天王寺福祉事業団が福祉施設の総合的な経営を行っているほか、四天王寺病院、四天王寺大学などの医療施設や教育施設も整備される等、社会福祉事業の先駆的役割を担って、高邁なる思想と実践が今日に継承されています。
大正7(1918)年、「民生委員の父」といわれる大阪府知事の林市蔵氏が大阪府方面委員規定を公布し、現在の民生委員児童委員制度の基礎を築きました。
また、その年は、富山県を中心に米騒動が起こり、100万人を超える全国規模の民衆暴動へ発展し、大阪でも大規模な騒動が発生しました。
第1次世界大戦の終結、株式市場の暴落など戦後の恐慌が始まります。
林知事は、社会事業の権威であり内務省警保局嘱託で司法や貧民研究会、中央慈善協会創設に参画した小河滋次郎博士を招き、方面委員制度の提言を行いました。その小河博士の頌徳碑が、府社協がある大阪社会福祉指導センター(大阪市中央区)の前に設置されています。
小河博士は、「方面委員の名を用いるのはすこぶる穏健かつ快活」と述べ、「救貧」とか「救済」とかの言葉を使わない配慮をして、「方面委員」という地域の人々との社会関係の形成をめざしました。
この制度は全国に普及し、昭和5(1930)年、全国方面委員代表者会議が開かれ、翌年全日本方面委員連盟が設立されました。
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昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏しました。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下で、社会事業の民主化の一環としてまず、地域の福祉活動の実践組織となる地区社協が組織されたのは、池田市と西成区、淀川区の3か所でした。これらの地域にはGHQが直接の指導に入り、大阪府内のモデル地区として地域のニーズ調査をはじめ、当時の衛生問題であった「蚊・ハエをなくす運動」など、住民参加による新しい地域社会づくりが着手されました。
この経験をもとに、府内各地に市町村社協の組織化と小学校区単位の地区福祉委員会の組織化がすすめられることになりました。
このようにして、住民主体の原則と公民協働の原則により、民間の自主的な運動体としての社協活動がはじまりました。