民生委員制度発祥の地 大阪府
夕刊売り母子の挿話
大正7(1918)年秋の夕暮れ、大阪府内のある理髪店で当時の林市蔵・大阪府知事が散髪をしていた。
鏡に写る街の風景を見るともなしに見ていた林知事は、ある一点に釘付けになった。
それは、40歳くらいの母親と女の子が夕刊を売る姿であった。散髪を終えた知事は、その夕刊売りに近づき1部買って話しかけた後、その足で近くの交番に立ち寄り、この夕刊売りの家庭状況の調査を依頼した。
後日、巡査から次のような報告があった。街角で見かけた母親は、夫が病に倒れ、3人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てている。子どもたちは、学用品も買えず、学校にも通っていない。
知事は、自らの幼いころの貧しい生活を思い起こすと同時に、このような母子は他にもいるはずだと考え、防貧・救貧の制度の必要性を痛感したと伝えられており、制度創設の精神を表している挿話として有名である。
つまり、方面委員は、濫給や漏給のないようにアウトリーチによって潜在的なニーズを捉え、それをアセスメントして適切な社会資源と結びつける仕事を担うのだという模範を、制度創設者である林知事が自らの行為によって示したといえる。
方面委員制度は、大正7(1918)年10月に創設され、小学校通学区域を担当区域として、区域内の住民の生活状態を調査し、その情報を基に、要援護者に対する救済を行おうとする制度で、非常に画期的なものでした。 岡山県でも大正6(1917)年に、済世顧問制度が創設されていましたが、この方面委員制度が全国各地に波及し、昭和11(1936)年に「方面委員令」が制定されたことにより、全国的制度として確立しました。戦後、昭和23(1948)年に「民生委員法」として刷新され、平成12(2000)年の「民生委員法」改正(名誉職から地域福祉の推進者へ)を経て、現在の民生委員制度として今日に至っています。