民生委員・児童委員は地域住民の立場で、生活に関する困りごとの相談や支援を行うボランティアです。
昨今、地域社会における日常のつながりの希薄化が進み、社会的な孤立・孤独が深まる中、民生委員の役割はますます重要になっています。
民生委員は民生委員法で設置が定められ、厚生労働大臣から委嘱を受けた特別職の地方公務員です。
地域住民からの相談に対し、社会福祉の精神をもって住民の立場で相談に応じ、住民が尊厳をもってその人らしい自立した生活ができるように支援を行い、 誰もが安心して暮らすことのできる地域社会づくりをめざして活動しています。
児童委員は児童福祉法によって民生委員が児童委員を兼ねることとなっており、地域の子ども、妊産婦、母子家庭に関する相談支援、情報提供に応じるほか、地域全体で子どもを育てる取り組みの展開や児童虐待の防止などの活動に取り組んでいます。
児童福祉に関わる事項を担当し、民生委員・児童委員の一員として活動にも関わります。
社会福祉の精神を持って、住民からの相談に応じたり、住民が尊厳を持ってその人らしい自立した生活ができるように支援を行うことによって、誰もが安心して暮らすことができる地域社会を目指します。
民生委員・児童委員は、市町村に設置された民生委員推薦会によりその選考が行われ、都道府県知事に推薦されます。推薦会は、市町村議会議員、民生委員・児童委員、社会福祉や教育関係者、行政機関職員等がそのメンバーとなります。
都道府県知事は市町村で推薦された人々について都道府県に設置された地方社会福祉審議会に意見を聴いたのちに、厚生労働大臣に推薦し、厚生労働大臣が委嘱します。民生委員・児童委員の任期は3年間です。
民生委員・児童委員は、民生委員法・児童福祉法に定められた活動を個人で行うほかに、委員どうしで民生委員児童委員協議会を組織し、活動に必要な知識・技術の修得、調査研究活動などを行うことが法律で定められています。
大阪府では、市町村ごとに1ヶ所(ただし、豊中市は4ヶ所、東大阪市は6ヶ所)の民生委員児童委員協議会が設置され、委員どうしでの研鑽に努めています。
民生委員・児童委員、主任児童委員には、民生委員法第15条で「民生委員は、その職務を遂行するに当たっては、個人の人格を尊重し、その身上に関する秘密を守り、人種、信条、性別、社会的身分又は門地によって、差別的又は優先的な取扱をすることなく、且つ、その処理は、実情に即して合理的にこれを行わなければならない」と定めています。
住民一人ひとりの人権とプライバシーを尊重し、秘密を保持する守秘義務があります。
全民児連では、「大丈夫ですか? 個人情報が記載された書類等の取り扱いについて(平成28年3月)」を発行し、個人情報保護の取り組みを進めています。
あなたの相談の秘密を守ります。一人で悩まず安心してご相談ください。
民生委員・児童委員、主任児童委員は、「民生委員児童委員信条」「児童憲章前文」の理念を守り、活動に励んでいます。
民生委員制度発祥の地 大阪府
民生委員制度は、制度創設から100年を超える歴史ある制度です。「地域における助けあい」が制度化された、日本独自の制度として発展してきました。100年以上にもおよぶ歴史の中で社会情勢や人々の生活のニーズに応じた活動を展開してきました。 民生委員制度の始まりは、岡山県の済世顧問制度とともに、大阪府で発祥した方面委員制度にまでさかのぼります。
大正7(1918)年秋の夕暮れ、大阪府内のある理髪店で当時の林市蔵・大阪府知事が散髪をしていた。
鏡に写る街の風景を見るともなしに見ていた林知事は、ある一点に釘付けになった。
それは、40歳くらいの母親と女の子が夕刊を売る姿であった。散髪を終えた知事は、その夕刊売りに近づき1部買って話しかけた後、その足で近くの交番に立ち寄り、この夕刊売りの家庭状況の調査を依頼した。
後日、巡査から次のような報告があった。街角で見かけた母親は、夫が病に倒れ、3人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てている。子どもたちは、学用品も買えず、学校にも通っていない。
知事は、自らの幼いころの貧しい生活を思い起こすと同時に、このような母子は他にもいるはずだと考え、防貧・救貧の制度の必要性を痛感したと伝えられており、制度創設の精神を表している挿話として有名である。
つまり、方面委員は、濫給や漏給のないようにアウトリーチによって潜在的なニーズを捉え、それをアセスメントして適切な社会資源と結びつける仕事を担うのだという模範を、制度創設者である林知事が自らの行為によって示したといえる。
方面委員制度は、大正7(1918)年10月に創設され、小学校通学区域を担当区域として、区域内の住民の生活状態を調査し、その情報を基に、要援護者に対する救済を行おうとする制度で、非常に画期的なものでした。 岡山県でも大正6(1917)年に、済世顧問制度が創設されていましたが、この方面委員制度が全国各地に波及し、昭和11(1936)年に「方面委員令」が制定されたことにより、全国的制度として確立しました。戦後、昭和23(1948)年に「民生委員法」として刷新され、平成12(2000)年の「民生委員法」改正(名誉職から地域福祉の推進者へ)を経て、現在の民生委員制度として今日に至っています。
林市蔵は、慶応3年(1867)年、熊本藩士の子として生まれた。父は市蔵が5歳のときに38歳でこの世を去り、母は、寝たきりの姑と病弱な子どもであった市蔵の養育に生涯をささげることになる。 時は明治の初めであり、母の苦労がしのばれる。
市蔵は極貧の中で小学校・中学校を卒業し、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業、拓殖務省につとめた。まもなく母が世を去っている。30年間のはりつめた生活の無理と、市蔵の就職による安心感があったように感じられ、市蔵は生涯この母親に対して何もできなかったことを悔いたという。
拓殖務省の内務省への合併後は内務省に勤務した後、警察監獄学校教授をつとめ、この間、明治33年(1900)年に静岡県沼津市の素封家である市崎氏の娘しげと結婚するとともに、小河滋次郎博士、牧野虎次氏、山室軍平氏、留岡幸助氏と知り合っている。
明治37年(1904)年には、山口県第一部長(内務部長)となり、その後、広島県第一部長、新潟県内務部長を経て、明治41(1908)年には三重県知事となり、さらにこの年、東洋拓殖株式会社理事として京城に赴任、8年間勤務した後、大正6(1917)年1月、山口県知事となり、12月に大阪府知事に就任した。
林市蔵の大阪府知事在任はわずか2年5ヶ月であるが、彼の官僚生活の最後でもあり、方面委員制度の創設をはじめ、よく人材を登用して府政を充実した。退官後は大阪を永住の地と定め、信託銀行総裁、米穀取引所理事長、中山製鋼所重役などを歴任、財界の世話役を果たし、戦後昭和27(1952)年に86歳で永眠した。
この間、戦時体制の中で隣組が制度化されるにあたり、「方面委員廃止論」が中央官庁にあらわれはじめると、市蔵は内務省や厚生省を歴訪して、大臣や局長に会い、忌憚のない意見を述べて、方面事業の真価について啓発し、結果、方面委員制度は存続することになった。戦後、方面事業に否定的なGHQ大阪民生部担当のボッツ博士から会談を申し込まれ、市蔵は英文で18項目にわたって解説を書いて渡し、会談では方面委員制度の意義を強調した。
敗戦直後、アメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印し、戦後は外相につとめた重光葵は、市蔵の長女の夫である。重光は市蔵について、尊敬といたわりをこめて、「隣人愛、社会愛に燃えた偉大なる殉教者的な聖者」と評している。
昭和26(1951)年の暮れ、ある区で老人と孫の心中があり、林市蔵は、この件について民生委員の援助がどうであったかを聞きに出かけていたという。86歳でなくなる1ヶ月前のことであった。
長い歴史をもつ民生委員制度には、制度を広く知ってもらうために生み出されたものがあります。
民生委員バッジは昭和11年に方面委員制度徽章として作成され、これまでに3回のデザイン変更を経て、現在に至っています。
全国統一の徽章ができる前には、大阪府方面委員制度の徽章が作成され、使用されていました。
(1)大阪府 方面委員の徽章
(2)全日本方面委員連盟作成
(昭和13年より使用されていた)
(3)民生委員制度施行に伴い作成
(昭和22年4月~昭和27年3月にかけて使用されていた)
(4)昭和27年~昭和35年まで使用されていたもの。
(5)民生委員マークとしても使用されている。
国民に公募し、昭和35年に4,358点の中から選ばれた。
幸せのめばえを示す四つ葉のクローバーをバックに、民生委員の「み」の文字と児童委員を示す双葉を組み合わせ、平和のシンボルの鳩をかたどって、愛情と奉仕をあらわしている。
(6)現在、大阪府内で勤続10年以上の功労者へ記念品として贈呈されているバッジ