ふくしおおさか2024年4月号
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岡山に日本で初めて孤児院を設立し、生涯を孤児救済にささげ「児童福祉の父」とよばれる石いし井いじ十ゅう次じ。今回は、岡山や宮崎での孤児院経営のかたわら、社会福祉法人石井記念愛染園(大阪市浪速区)の礎を築いた大阪での実践を紹介するぞい。明治後半、資本主義社会、近代社会への転換期を迎える中で、大阪は東洋のマンチェスターとよばれるほど、日本を代表する工業都市として大きく発展。江戸時代からスラム街を形成してきた地域には、多くの出稼ぎ労働者が集まってきていたんじゃ。時を同じくして、孤児の救済と就職の窓口として大阪進出を考えていた十次は、大阪府警務長から浮浪少年の相談をうけたぞい。そこで、最も困難な生活問題は孤児問題から都市部のスラム問題に移行していると直感。十次は、大阪の課題に取り組むことにしたんじゃ。1909(明治42)速区)の高こう津づ入いり堀ほり川がわにかかる愛染橋のたもとに、住民の更生と児(愛染橋病院ロビー)年童、の大保阪護市、南教区育(な現ど・浪をのこ事と必かならずずならん」目的として、愛夜学校を開設。きる同情館を診・施薬、困窮者の保護などに尽力した。同情館では開設7カ月で189人を救済した記録が残っているぞい。無理がたたったのか、病により48年の生涯を閉じた。十次と親交が厚く、事業の援助者でもあった倉敷紡績株式会社社1917(大正6)年、私財を投じて財団法人石井記念愛染園を設立した。研究にも着手。疾病が貧困の要因である(昭和12)年、低費診療施設(現在の無料定額診療事業)として附属愛染橋病院を設立し、今につながっているぞい。挑戦しつづけた十次の思いは、大阪の地に確かに息づいているんじゃ。染橋保育所とさらに近くの日本橋筋5丁目には宿泊で設立し、無料職業紹介、往1914(大正3)年、十次は、長年の長大原孫まご三ざぶ郎ろは、十次の志を引き継ぎ、そして、貧困の根本的な解決をめざしことを知った大原孫三郎は、1937「為なせよ、屈くっするなかれ。時と重かなればそ困難に直面しても決してあきらめず、あくなき挑戦 きさ う 9石井十次記念像顕彰碑(大阪市浪速区日本橋東)No.20第697号 この広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいていますケロ福ふくしを巡る

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