ふくしおおさか2025年11月号
3/12

的接触を通じて福祉の向上を図ること※貧困地域に入り込み、住民との知的・人格人と関わる仕事がしたいと考え、大学卒業後は一般企業の営業職に就職。お客さんと接する中で、会社の商品を通した関わりではなく、相手の生活をより良くする関わりをしたいと考えるように。地域のさまざまな人と関わることができる社協に転職しました。現在は、CSWとして担当地区をもち、個別支援や地域支援を行っています。困りごとを抱えている人の相談を受け、アセスメントを行い適切な支援につなげています。また、地域のサロンに出張相談というかたちで参加し、住民が気軽に相談できる仕組みを整えています。他にも、校区福祉委員会会長からサロン活動について相談があった際にはアドバイ志しが賀志し那な人。その名は福祉にかかわる者のみならず、大阪人の誇りとして忘れてはならない存在なんじゃ。東京帝国大学を卒業後、い」と考えた。与える福祉ではなく、キリスト教主事として大阪に来た志賀は、識・技術・資材など、持てるものを提その才能を認められ大阪市へ入庁。大正(1921)年6月に誕生した日本最初の公営隣保事業(※セツルメント)裏側の公舎に家族で暮らし、銭湯で施設であり、「愛の蔦」で知られる大阪市立北市民館の初代館長に就任したぞい。当時の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれ一大商工業都市へと躍進していたが、一方で、天神橋六丁目・長柄付近は劣悪な労働条件や物価高騰の影響で、スラム街となっていた。北市民館は、困窮市民の救済と地域住民の生活力の向上と安定を目的に、歯科などの診療所や図書室、授産場のほか、民生安定所(職業紹介)が自然のなかで育ち、憩うことがでや質舗などの大規模な隣保施設として、地域住民の暮らしの教化娯楽の中心地となったんじゃ。志賀は「社会事業は大衆のものである。そして大衆の力によって行われる。ゆえに『救ってやる者』がないと同時に『救ってもらう者』もいな住民自身の時間・労力・財力・気力・知供しあう。内在する地域の力を開発えたんじゃ。志賀自らも、北市民館のは地域住民と裸の談義や浪花節を斉唱した。こうした、住民とともに歩む志賀の人柄が地域を動かしたのかもしれないのう。露天保育所や託児所の設立の一方、愛隣信用組合が1926年4月に大阪府知事より認可を受けると、子を持つ母親たちの共同保育組合を熱心に推進したんじゃ。母親たちの協力により花壇や菜園、小動物や子馬の小屋、昼寝の場所のほか、子どもきるように工夫を凝らした郊外園舎を設立。こうした志賀の活躍が、後にた福祉人材を生み出しているぞい。スや他校区での取り組みを紹介するなど、地域の方が活動しやすくなるようにコーディネートしています。心がけていることは、難しい相談でもまずはお受けすることです。残念ながら社協として対応できないケースでも、できないと断るのではなく、他の方法を一緒に探したり時間をかけて説明したりします。今回は対応できなくても、次に困った時に社協へ相談してもらえるよう、関係づくりをすることを大切にしています。困っている時にどこに相談すればいいのか分からない、という人は少なくありません。また、今は困りごとがなくても生活の変化とともに誰かの支えが必要になることもあります。一方、社協という存在がまだ世間に十分に知られていないと感じています。“地域には社協という味方がいて、困った時には相談ができる”ことをもっと多くの人に知ってもらいたいと思います。也さんもちつもたれつの社会をめざしてズームアップズームアップZ O O M U P !Z O O M U P !岡さ3と第705号 第705号 この広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいていますこの広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいています比ひ嘉が正ま子こをはじめとした多くの優れ このコラムでは、福祉の職場で働く人を紹介し、仕事や人の魅力を伝えます。今回登場するのは、入職2年目の岡本さん。やりがいや今後の抱負について聞きました。✿困った時に✿社協をもっと相談できる関係づくり知ってもらいたい✿その人の生活に関わる✿活動しやすくなるよう仕事をコーディネート北市民会館の模型(大阪市社会福祉研修・情報センター)10することで生活が向上することを唱No.25vol.38ふ くし を 巡 る本 聖社会福祉法人枚方市社会福祉協議会おかもとせいや笑顔 咲かせる人

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る