ふくしおおさか2025年4月号
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至誠でひらけ!経済復興と福祉の道今回は我が大阪府社会福祉協議会(以下、府社協)の初代会長、杉すぎ道みち助すけを紹介するぞい。明治17年に生まれ、山口県の萩で育った杉は大のおじいちゃん子だった。祖父は吉田松陰の兄であり、杉が松陰の教えを知るきっかけとなったんじゃ。「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」。真心を込めて事にあたれば、必ず成就するという松陰の言葉は、杉の人生の指針になったぞ。杉は慶應義塾大学を卒業後、鉱山会社に就職。その後、明治45年には妻の実家であり繊維業を営む八木商店に転職し、企業家としての道を歩みはじめたぞい。当時大阪では繊維業の発展が著しく、財界との関係も深かった。杉は昭和4年には大阪商工会議所の議員に当選。各界への要望・陳情の取りまとめ役として活躍した。「引き受けすぎる」と評価されるほど多方面の世話役を引き受け、温和で朗らかな性格は誰からも好かれていたんじゃ。一方、この頃から戦争がはじまり、大阪の経済は深刻な打撃をうけ、府民は日々の暮らしもままならなくなってしまった…。戦後の苦難が続く昭和21年に、杉は大阪商工会議所の会頭に就任。市政と財界をつなげ大阪経済の復興に尽力したぞい。大阪経済の地盤沈下を危惧した杉は、「近畿は一つ」という考えのもと、広域経済圏の確立を提唱。新幹線や空港整備等、先駆的に府域や政治的枠組みを超えた事業展開を行ったんじゃ。なんと、昭和45年に開催された万国博覧会の大阪開催も杉の発案が発端と言われているぞ。活躍は経済界だけにとどまらず、昭和22年大阪社会事業共同募金委員会の初代委員長、昭和26年3月には、府社協の初代会長に就任。約10年間で大阪の戦後の社会福祉の基盤をつくっていったんじゃ。杉は当時の本会機関誌で、「つねに先駆的で実践的であれ」と訴えている。その挑戦的な姿勢と、狭い枠にとらわれていては住民の幸福や経済の発展はないと考えた杉の教えは今の府社協にも受け継がれているぞい!9第702号 第702号 この広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいていますこの広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいています 協力:大阪商工会議所 大阪企業家ミュージアム福吉No.24杉 道助(大阪商工会議所所蔵)ふくしを巡る大阪企業家ミュージアムで杉道助の写真や資料が閲覧できるぞ!

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