ふくしおおさか2022年特別号
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ケアラーの就職支援のため、2019年にYancle(ヤンクル)株式会社を起業。ヤングケアラー支援を進めている地方自治体と連携し、LINE相談窓口やオンラインサロンなどを実施している。これまでに200人以上の相談を受ける。 「話せてよかった」と泣きながら話すAさん。Aさんの両親はともに障がいがあり、持病の発作もいつ起こるか分からない。在宅でできる仕事を探すが、パソコンスキルがなく仕事がみつからない。制約から就職に不利な状況がある。今の環境での働き方を一緒に考え、選択肢が広がるようなアドバイスをする。一人ひとりの夢が叶うように宮崎さんはサポートしつづけている。そんな宮崎さんの学生時代を振り返る。いた。そこから、病院の付き添いや買い物などをサポートする日々がはじまった。当時は、家族が困っているから、やるべきことをやっているという気もちだけで、何とも思っていなかった。ただ、母からお弁当を作ってもらえないことが当たり前になり、他の友だちとは違うという違和感を覚えていた。宮崎さんは、自身の経験からヤングヤングケアラーは時間的、心理的な中学3年生のとき、母の異変に気づの写真撮影。生徒と保護者が舞台上で写真を撮り終わった後、舞台から降りられない母だけが取り残された。同級生のいる前で母が降りる手助けをするのが恥ずかしかった。断された。夜もトイレに付き添う状況になった。落ち込む母を見ているのが辛く病気が治らないこともショックだった。友だちにも自分の状況を理解してもらえるとは思えず、誰かに相談しても病気が治ることはない。恋愛よりも介護を優先したことで、当時付き合っていた彼女と別れた。ない。そう考えてしまうほど、家族のことが最優先で、モヤモヤとした辛さを抱えていた。  へ”         2に大学に進学。しかし、母は2〜3時間おきに介護が必要な状況で、通学時間も考えると大学に行けなくなっていった。友だちには介護の話ができず、バイトが忙しいと嘘をつき続ける毎日。それが辛く、大学に行くときは誰にも会わないように裏道から通学していた。今でも覚えているのが高校の入学式高校3年生のとき、母は難病だと診介護のこと以外は、悩むべきことでは高校卒業後は介護に専念し、2年後護をしてくれる時間が増えた。好きだったファッションや音楽をきっかけにクラブに通うように。朝の4時に終わるので、母を寝かしつけてから行くことができた。クラブでいろいろな人と接するうちに社会性を取り戻し、大学でもコミュニケーションが取れるようになった。大学に行けない理由もクラブに行って寝過ごしたと本当のことを言えるようになった。大学2年生のとき、姉や弟が母の介クラブは夜の11時からオープンしてピールすることがなく、いくら受けても受からなかった。大学のキャリアセンターでも、「あなたがサボっていただけだ」と言われ、相談に行けなくなった。入社条件だったので、家族に介護を任せ京都に行くことに。しかし、母の病状が悪化する。介護のため転職を決意するが、転職エージェントに介護のことを話しても理解されなかった。支援のボランティア活動で自分がヤングケアラーであることを知った。の集まりに参加。語らずとも分かりあ就職活動は介護と学業の両立しかアなんとか内定した会社は全国転勤が介護系のIT企業へ転職後、難病それをきっかけにヤングケアラーえ、介護のことも明るく話しあえた。介護と学業を両立させる難しさ、誰にも話せず理解されない孤独など、今まで自分が抱えてきた問題が共通していることに気づいた。将来を解消する一つの手段だが、社会構造を変えていきたい。就職支援やコミュニティの運営も高校時代高校時代クラブに出会えたクラブに出会えた母への愛が自分を母への愛が自分を突き動かしてくれた突き動かしてくれた元ヤングケアラーとして起業”当たり前の手伝い”から”介護中心の生活社会とつながる場理解されない介護、ヤングケアラーたちとの出会い自分自身と向き合った時間は宝になる 母は去年亡くなった。家族の介護やケア、どんなに辛いことでも、自分と向き合った経験は無駄にならない。回り道しても、自分についてたくさん考えることができ、それが自分の成長につながったからだと思う。立ち止まって、自分自身と向き合って考える。そうやって少しずつ自分の人生を歩んでほしい。大学時代大学時代部活に打ち込んでいた部活に打ち込んでいた

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