ふくしおおさか685号(秋号)
3/12

つ3人に頼られることが好きで、高校生の頃はカウンセラーに憧れていました。ところが、ひょんなことから福祉系の大学へ。卒業後、まずは現場を知りたいと介護施設でホームヘルパーとして働きました。その後「社会に必要な仕組みをつくりたい」との思いから一念発起。職員募集の締め切り日に偶然募集を見つけ、社協へ応募し入職が決まりました。社協生活も10年目。これまで、CSWや学習生活支援、日常生活自立支援など、さまざまな業務を担当しました。その中には、悩むことや失敗もたくさんあります。それでも地域の情報を収集・発信しつづけることで、ふっと風が吹くように共感してくれる人が現れ、人や資源をつなぐことができたと感じたときにやりがいを感じます。今年8月からはみんなでつながる、つながりカフェ「ボラカフェ」をスタート。  コロナ禍で地域活動が少なくなっているボランティアさん、学習支援に参加している中学生・高校生・大学生など、これまでの社協人生で培った地域とのつながりがカタチになり、誰もが自分の特技を活かせる居場所づくりをめざしています。地域の人が大切にしていることを十分理解できずに失敗することもあり、まだまだ勉強の日々です。また、自分自身がさびないように常に情報や知識もアップデートし、資格取得も心がけています。大学時代は落研で、今は落語を見ることと、お酒をたしなむことがリフレッシュになっています。ボランティアとは思いやりの形で、ふくしはその人にとっての当たり前の生活。昔の長屋がでてくる落語の世界のように多様性を受容する世界が広がってほしい。そのためにひとつの点を線につなぐようにひとりの思いを実践につなぎながら、これまで携わってくれた方に恩返しをしていきたいです。て脊髄を損傷した軍人に、スポーツを勧めた。当時、リハビリ運動だけではなく、スポーツをとりいれるということは先進的なことだったんだ。患者による競技大会を開くと、その取り組みは大きく広まり、国際大会へと発展。そして、1964年の東京大会の際、「Paraplegia(対麻痺者)」と「Olympic(オリンピック)」とを組み合わせて、「パラリンピック」は生まれたんだよ。初の障がい者のためのスポーツ施設『大阪市身体(のちの長居)障がい者スポーツセンター』が誕生。ボウリングやプー、1ル、卓球など車いすでも利用できる設備と指導者を備えた画期的な施設で、国内外を問わずホーボー(方々)からの視察があったんだ。の児童や、施設入所者の利用が大半をいくつものドラマを生み出した東京2020パラリンピック。その大会は、イギリスのストーク・マンデビルという病院から始まった!院長のルードヴィヒ・グッドマンは、第二次世界大戦によっこの大会を契機に、1974年、日本当初は身体に障がいのある支援学校占めていたんだ。なぜなら、当時、障がい者は保護されるものという考えが強く、ひとりで出かけること自体ハードルが高かったんだって。 大阪で体育教師をしていた藤原進一郎氏は、いつひとりで来館しても安心してスポーツを楽しめる施設にしたいと、センター運営の指揮をとることに。その活動の第1歩がスポーツ教室だった。また、教室に参加した利用者が指導者になり、仲間とともに活動するクラブを作った。これは、利用者が教える側になることで、力や、繋がりが生まれる、新しい取り組みだったんだ。参加者からは「重い障がいがある方に、勇気をもらえた」「仲間と一緒に練習し、生まれて初めて勝つ喜びを知った」といった声が集まったよ。多い時は、年30万人以上の人びとが、障がいの有無に関わらず、一緒にスポーツを楽しんでいるよ。藤原氏の「自分だけでなく、仲間を」思う気もちの大切さを知ってほしいという志は、ずっと受け継がれていくんだ。ズームアップ―やっぱり社協で働きたい―地域に風を吹かせたい―どこまでいっても勉強~大阪発障がい者スポーツへの挑戦~〟社会福祉法人 茨木市社会福祉協議会 ボランティアセンター安藤 八やえ枝さんボウリングは大人気。倒したピンは操作盤を触ると確認できるようになっているんだ!第685号 この広報紙の作成には共同募金配分金を活用させていただいています・・・・・・ふくしを巡るふくしを巡るNo.10 このコラムでは、福祉の職場でイキイキと働く人を紹介し、仕事や人の魅力を伝えます。 今回登場するのは、入職10年目の安藤さん。社協をめざしたきっかけややりがいについて聞きました。福吉〝感動から生きる喜びへvol.21“ふくし”が当たり前の世界をめざして―ふくしが特別視されない世界を

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る